リックスの村に戻ってきた。
一時的な帰還に過ぎないけれどやはり「故郷」という場所は特別だ。故郷の空気が手放しで懐しく嬉しかった。
先刻身を翻して走り去っていった幼馴染の少女の姿を思い出し、バッツは何だか後味の悪い罪悪感を感じていた。それでも、何だかむかついた。
「…まあ、怒ってるだろうとは思ってたけどさ」
"お帰り"位言っても良いんじゃ無えの?
「…確かに俺が悪いんだけどさ」
普通いきなりグーパンで殴って来るか?
まあいきなりグーパンどころか回し蹴りetc.etc.…を喰らわして来る様な凶暴な女に大いに心当たりが有ったのも事実なので、あんなのまだマシな方かと思い直した。
早起き損だったかな、と呟いて彼は宿屋のほうに足を向ける。
爆発的な光を放つ前の朝日が山裾から徐々に空をほの明るく照らし出す。照らし出された空が灰色と白い光と青と橙色とが混ざり合って綺麗だった。無造作に混ぜられている様で混ざっていないそれらの色合いは、何かが弾けそうで美しい。何度見てもそれは変わらなくて、朝日という光景は相変わらずバッツには神秘的で不思議だ。
世界に自分一人。そういう偽念を思い起こさせる。
自分以外に存在しないだろうという清冽な物悲しい張り詰めた感じとこれから世界を照らし出すという大きな力とが、混ざろうとして上手く混ざれないという感じがして朝のこの瞬間は全てを洗い流す。
不思議だという以外上手い表現がやはり思い付かなくて、やはり不思議だとしか思えなかった。
それでも
「あー、眠い」
大きく欠伸をした後にそう言って伸びをした。
朝日より睡魔が勝る。
「もっかい、寝よ」
青年は宿に帰る足を速めた。
バッツが二度寝を決め込んで暫くした後、宿屋では朝食の時間を迎えていた。
女将の「他にお客さんも居ないしねえ」という善意で旅人達には個室があてがわれている。
宿屋のそれほど広くないテーブルに、寝起きだと思えない位に身支度をきちんと済ませている女性と、寝起きかなと見当を付ける位には寝癖がついている初老の男性と、どう見ても寝起きだとしか思えない頭で不機嫌そうに頬杖を突いている女性が座っていた。
「ここは辺鄙だけど、今ぐらいの時期なら中々いい所だよ」
まあ、あたしらにとっちゃ年中良いとこだけどねと付け足しながら女将が肉と野菜(山草だろうか)を軽く炒めた物などを卓に置く。
料理を見て少し機嫌が良くなったのか、不機嫌そうに座っていた女性の顔が嬉しそうな物になった。
「そういえば、もう一人いたんじゃなかったかい。起こさなくて良いのかい?」
「「「いつもの事ですからお構いなく」」」
思い出したかのような女将の言葉に、語尾は違えど座っていた三人の言葉が綺麗に重なった。
「でも、食事が無いということになると多分半泣きになると思うので、後で別に用意していただけますか」
女将は笑いながらそれ以上は何も言わず、部屋の向こうへ入っていく。
もう一人いる筈の仲間の分の食事の事を頼むのは今更だがもう既にレナの役目だった。
「レナさあ、甘やかしすぎだって」
食事を頬張りながらの不明瞭な発音でファリスは不機嫌に話す。
レナは困ったような笑顔を浮かべながら、ファリスを見つめた後に食事に手を付ける。
「…だって、前に半泣きになられた時に大変だったじゃない」
今ここにいない彼は、以前同じような状態になった時に大層機嫌を損ねて仲間たちが所持していた保存食すべてに手を付けた前科がある。それがファリスの逆鱗に触れ、殴る蹴るの喧嘩(と言う名の死闘)に発展したのは言うまでもない。
元々素直に謝れない性質同士がぶつかったのが災いしたのか、彼らが和解するまでの他の仲間達の気苦労は大変な物だった。
レナはその時の事を少し遠い目をしながら思い出した。
どこかへ意識を飛ばせながら諦めたように笑う彼女の様子にファリスもそれ以上何も言えず、ぼそっと「ごめんてば」と囁くように呟いた。
「若いとは良いのう」
「うるせえ!」
初老の男性が豪胆に笑う声と寝起きまんまの女性が怒鳴る声が宿屋に響いた。
「俺、村を出るんだ」
きりきりと締め付けるような寒さの中、消えそうな声で彼は言った。
夜なのにたくさんの星が出ていて、こんなに明るくなかったら泣きそうに歪む心に歯止めを付けずに済むのにと星を恨んだ。
風がほとんど出ていないから、鼻をすする音も物凄く響く気がして。
どうして今こんなに静かなんだろうと、風を恨んだ。
「…いつ、帰ってくるの」
彼は答えずに泣きそうな顔で笑った。
頬が赤くて、自分と同じくらいに彼も寒いんだなと思う。
「手紙、書くよ」
それだけ言って彼は黙った。
「絶対、だよ」
自分もそれ以上何も言わなかった。
空気がひどく冷たくて、今あるものが全て凍れば良いのにと、きっと自分は願っていると思った。
そうすればどこにも行けなくなるんだと、残酷に願った。
「旅の人にお話聞きに行こうよ」と妹のような存在の少女に何度もライカは誘われたが、何かと理由を付けて行かなかった。
しまいには怒った少女に足を踏まれて「バカっ」と言い捨てられて駆け出されたのはつい昨日、旅人達がリックスに留まって三日目の事だ。
結局水汲みを忘れて母親にひどく叱られた事を思い出して、尚更ライカは不機嫌になった。
母親が隣の夫人に「うちの娘、反抗期かしらねえ」と気弱げに相談している現場を偶然目撃した時は、あやうく「そんなんじゃないってば」と叫びながら割って入りたい衝動を堪えるのに一苦労だった。
自分に溜まっている気持ち全てが理不尽な気がして、ライカは不機嫌だった。
自分の時間が素直に「お帰り」とも言えない、幼い頃のままなのだと思い知って、それが何より気に障った。
いつも通りのそれなりに早い時間に床に着いても、ライカは寝付けなかった。
何度も寝返りを打ちながら、幼い頃の事をしきりに思い出した。
鼻が無性に熱くて、切りつけるような星の遠い夜。
泣きそうな寸前で地面を踏みしめながら、馬鹿みたいに空を見上げた。
俯いたら本当に泣きそうで、悔しかった。
きっと彼はそこにいる筈だと唐突に思った。
かなりの間迷っていたが、本当に自分は何て馬鹿なんだろうと思いつつ結局体を起こした。
着ている物を普段外に出るときに身に付けている物に着替える。
部屋の扉をそっと開けると、既に家中静まり返っていた。
悪いことをしている訳ではないと言い聞かせながらも、体中が心臓になったような気がした。
必要以上に物音を立てないように家を抜け出す自分にため息を付きながら、出入り口の戸を開けた。
夏が始まったばかりだ。
夜の緑の匂いがやけに鼻に残った。
暗闇に近いような村の道を歩きながら、昔最後に言葉を交わした場所へ向かう。
村の外れの、物寂しい所だった。
時折強く吹き付ける風に髪を抑えながら、はやる様に足を進める。
ちらりと見上げた空には星が出ていた。
村の入り口を少し逸れて入った草薮は道すらない。
記憶を頼りに更に進む。
少しひらけた場所に出て、予想通りそこには先客がいた。
昔と同じ所に立っていて、昔よりも随分背が伸びて。
自分はあの時のままなのが無性に癪に障った。
「遅えよ」
振り向きながら昔と同じように人懐こく笑う様子に腹が立った。
「あんたと約束なんかしてないでしょ」
昔の場所に自分は立つことが出来ない。
「ひでえなあ」
「自業自得でしょ」
可愛げのないやりとりに少し気がおさまる。
「今さ、俺らあてのない旅してんだ」
自分に話す風でもなく、彼は勝手に言葉を作る。
「ドルガンさんは」
何も答えずに少し笑った彼の顔に、聞いてはいけなかったと後悔した。
泣きそうな顔をしていないのに、それは昔に見せた彼の表情とよく似ていて。
謝る事をためらいながら、ライカは目を逸らした。
そして躊躇しながら昔自分の立っていた場所へ歩いた。
「何の旅なの」
それは彼の隣で。
居心地が悪くて声が僅かに震える。
彼は旅の事を勝手に語る。
彼の言葉はひどく分かりづらくて。
明日はどうなるか分からない旅なのだというのが漠然と分かって、そんな事を含ませないで話す様子に泣きそうになった。
二度と会えないかもしれないというのが、とても会いたかったのだと思う気持ちに重なった。
「気が向いたら、手紙書くよ」
もうそれは約束ですらなくて、会いたかったのだと思う気持ちに重なった。
「気が向く事なんて、多分ないでしょ」
それだけ言って、空を見上げた。
あの時と同じ、下を向いたらきっと泣いてしまうと思った。
星は出ていたけれど、風も強く吹いていて。
それがひどくありがたいと思った。
あなたの事を 覚えています
思い出せなくても 覚えています
「バッツ」
そう呼んだ名前がなんて他人行儀なのだろうと思う。
「今更だけど、おかえり」
上を見たままだったから、彼がどんな顔をしていたのかは分からなかった。
「ホント、今更だな。もうすぐまた旅に出るっての」
そう言った彼の声が笑っていた。
だからきっと笑っているのだろう。
今度はもう約束ですらなくて、それでもきっと自分は忘れないんだろうと思う。
忘れたくないのだと思う。
覚えているのでは無く
覚えていたいのです
忘れないで欲しいと思ったのは、ずっと昔。
同じようにまた、胸の中に立てた。
憶測だけで過ごす寂しさを、知っている。
勝手だけれど 覚えていて欲しいのです
何も言えずに上を見つめた。
いくら風が吹いても、星は消えなかった。
空が世界中に繋がっているなんて嘘だ。
同じように見つめてもこんなにも遠い。
喉の奥が熱くて、空がにじんだ。
* * * * * * * * * *
「あなたに夜の焔灯を」の半年前舞台の話です。
(2004.05.24)
back