彼が願うとすれば、時間よ巻き戻れ、という事だったに違いない。
どうしてよりによってこの日にここへ来てしまったのか。己のタイミングの悪さをその時ほど呪ったことは無かったかもしれない。
その位、その時バッツは真っ白だった。
サリサ姫が今自分に抱きついてきているという事態がもう己の許容範囲内を越えていた。
ああ、俺マジで倒れるかも、と思ってそれでもこの事態から逃げれるならそれは非常に誘惑的に映る。
体が傾きかけた彼を留めたのは、抱きつくサリサ姫のか弱さでもなんでもなく、抱きつく格好で彼を射抜くように見据えてくる彼女の鋭い目だった。
「・・・ジャック。あの日貴方は私に別れを告げたわ。だから私も新しく生きようと思ったのに。ようやく思えるようになったのに。・・・どうして今更貴方がここに居るの?」
サリサ姫は弱々しく悲しげな声色とは裏腹に、その目は凄んで切るように睨みつけていた。幸いな事にそれはランスロットからは見えない位置だったので、バレる事は無かったが。
「おい、てめえ、話合わせろよ」
と、姫とは思えない獰猛な光を目に宿らせながら、サリサ姫はバッツに物騒に低く囁いた。勿論ランスロットには聞こえていない。
そうしてたおやかな様子で姫は抱きついている。
回らない頭でバッツは状況を把握しようと必死だった。
1.自分は「ジャック」という役柄らしい
2.姫と自分は恋仲にあったが、自分がそれに終止符を打ったらしい
3.だが今日、自分は何故かこの場にいるらしい
把握しても泣きそうになるくらいに、眩暈のする筋書きにバッツは腹をくくった。
今そうしないと確実に(勿論姫の手によって)死ぬと思った。
一世一代の道化芝居だった。
もうどうにでもなれという自棄に似た物が弾けた。
「ああ、姫・・・。愚かなわたしをお許しください」
「・・・ひどいわ、どうしてなのジャック」
縋り付く姫の肩をそっとつかんで、自分の身から離すジャック。
「私は一介の護衛、貴方とはどう見ても身分が違う。貴方から身を引くべきだと思ったのです。ですがせめて最後に貴方の為に務めを果たしたかったのです。無理を言って今日この場の護衛を勤める許可を頂いたのです。そうして私は城を離れるつもりでした。」
「ジャック・・・」
見つめ合った後にサリサ姫は己の顔を手で覆うとそのままジャックに身を寄せた。
そうして姫はジャックにだけ聞こえる低い声で「陳腐な筋書きだがおめえにしちゃあ上出来だ」と囁き、指の隙間からジャックを見ながら射抜くように鋭く満足げに、笑った。ジャックが硬直したのは言うまでも無い。
「姫、・・・私は貴方に少しながら好意を寄せていました」
椅子に座ったランスロットが立ち上がると静かに話しかけてきた。信じられないことに、怒っている様子は無かった。
はっと顔を上げ、サリサ姫はランスロットを見つめる。
「ですが、貴方達は私など立ち入る隙のない位の想いで結ばれている」
そうして、彼は静かにジャックを見つめる。
「ジャック君」
「は、はい」
ジャックはまさか見合い相手から自分に話しかけられるとは思わなかったので、更に硬直した。声が思わず裏返る。サリサ姫は弱々しくジャックに目を向け(るフリをし)ながら「テメエ、ヘマすんじゃねえぞ」とドスの効いた囁き声を向けた。
ジャックは更に硬直した。
「君ならば、サリサ姫を幸せに出来る」
「…ら・・・、ランスロット、様」
何て名前だっけなと混乱する頭を何とかまとめながら、やっとの思いでジャックは見合い相手の名前を絞り出した。きちんと「様」をつけることが出来た自分を手放して褒めてやりたくなったジャックだった。
「さあ!行きたまえ!後の事は心配いらない。私が何とかしよう」
涙を浮かべたサリサ姫は、ランスロットに向かって頭を垂れると、未だ硬直したままのジャックに「おら、逃げるぜ」と囁いた。それで呪縛が解けたようにジャックもランスロットに一礼をとる。
そうして、2人はそのまま転げるように部屋を走り去った。
自嘲気味に笑いながら、ランスロットは天を仰いだ。
そうしてサリサ姫もといファリスとジャックもといバッツは、城内を走り去っていた。
途中、ファリスは他の部屋へ立ち寄って彼の荷物を持ち出して来た。
「走りづれえたらねえな」
そう言うと、彼女は履いていたヒールの華奢な靴を脱ぎ捨て、着ていたドレスをためらいもなく膝丈にまで(彼の剣を使って)切り裂いた。
そうして幾分身軽になった彼女と共にまた城内を走り去る。
バッツには言いたいことがもう山ほどあったが、取りあえず今は逃げるのが先だった。そしてもう逃げるしない自分を諦めたように笑うしかなかった。
とある窓に来ると、彼女は乱暴に窓を開ける。
「おい、こっから出んぞ」
こっからなら外へ出やすいからなと言って彼女はどこから用意したのかロープを柱に結び付けて固定する。
そうしてロープを窓から放ると、短くなったドレスを翻して飛ぶように降りた。
バッツももう従うしかなく、同じように窓から身を翻す。
見上げた空の色はもうすっかり、夜の色だった。
その後彼女の目論見どおり彼らは城から抜け出し、待機させておいたチョコボと合流しそのままの格好で、逃亡した。
日はもうすっかり暮れ、空はもう星が出ている。
どの位逃げてきたかはもう考えたくも無かったが、相当に距離を駆けてきた気がした。
信じられない事に、追っ手がくる気配はなかった。おそらくは見合い相手の彼が言葉通りに尽力したのだろう。
さすがにもう安全と踏んだのか、ファリスは一時的に休憩をとる事を提案する。バッツにも依存はなく、というよりもう動くのも何か考えるのも勘弁という位疲れていた。
「・・・・・・・お前、いつから企んでた」
着替えるのも億劫だとばかりに、従者用の服を着たまま地面に横たわりながら言うバッツの声は力ない。
「・・・聞かねえ方が良いんじゃねえか」
縛っていた髪をほどきながらファリスは悪戯っぽく笑う。
なりふり構わず逃亡して来た事に加え、敷物を敷いて座るなどという事すらせず地べたに腰をおろしている事も手伝って、身につけているかつてドレスだった物はバッツが身に付けている従者服と同じくらい無残に土まみれだ。
「・・・・・・俺、もう二度とタイクーンに行けねえじゃんか」
ため息を付きながら憂鬱に浸る彼を、手を止めて彼女は不思議そうに見た。
「何だ、お前そんなにタイクーンに愛着があったのか」
「いや、そういう事じゃなくてだなあ・・・」
あああ、と訳の分からないうめきをもらして彼は頭を抱えた。
「また一緒に旅しような」
棒読みのようにファリスが言うのにバッツは抱えていた頭を離す。
「前に、約束したろ」
手を止めたままの彼女の表情は見えない。
「俺がこうした理由だ」
二度と言わねえからな、と言って彼女はバッツの反対側に顔を向けた。
腹の中がなにかくすぐったくなる。地面の感触が唐突に暖かくなった気がした。
寝転がったままバッツは彼女を呼んだ。
ファリスは決まり悪そうにちらりとそちらへ目線を向ける。
「これから、どこへ行こうか」
何となく彼女へ手を差し伸べた。
「・・・どこへでも」
そう言って彼女は少しだけ、笑った。
そうして彼女は彼の手をつかむと立ち上がらせる。
「おら、いい加減、着替えろよ」
そう言ってつれなく手を離して歩み去る様子に何だか笑いがもれた。
とりあえずはもう必要のないこの服を着替えなければ。
そうして必要のない役割も一緒に投げ捨てるんだろう。
彼女が荷物を投げてよこすのを受け取りながら、遠い彼方へ別れを告げた。
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