ファリスは苛立っていた。
毎回のように彼女の苛立ちは大概某人物によるもので、その時の原因も例に漏れず某人物だった。
苛立ちの標的は呑気な物で、マイペースに水汲みを行っている。
旅のメインは野宿だ。
野宿という事は風呂無しという流れになる。
テントを構えた近場に水流があればまだ快適に過ごすことが出来る。
けれど世界は作り物とは違う。
毎回都合良い事は起こらないのだと、身を持って彼女らは知っている。
生きている以上飲み水は必要だし、贅沢を言えば顔や体だって拭いておきたい。だから水場で体を洗えた日は、この上ない贅沢なのだ。
彼女らの旅はそういう物だった。
だから水汲みという行為は重要なのだ。そして水は案外重量があるから、水汲みというのは侮れない。意外と重労働だったりする。
それでもファリスにはその彼の呑気な(に見える)様子に非常に苛立っていた。
彼の行動が最近不可解で非常に面白くない。
前は違ったのに、と考えて彼女は頭を振る。
近頃某人物の事ばかり考えていると思い当たってそれがまだ苛立ちになる。
某人物――バッツは最近様子が変だった。
例えばこうだ。
先日雨が降った。
彼女らは例に漏れず野宿だった。
雨が降るのは出来れば勘弁だったが仕方が無い。降るなと命令など出来ない。
これからテントを張るかという所での、しかも突然の豪雨だった。荷物を整理していた彼女らはあっという間にびしょ濡れになった。
油断していた自分に歯噛みしつつ、彼らは近くの木の下に避難した。
樹齢を重ねた木々が茂る森だったので大木が多く、雨避けにはもってこいだったのが幸いした。
「…気持ち悪ーい」
クルルが小さな声でそう呟いた。
濡れた服が快適な訳は無く、一同それは同じ思いだった。
「この木の下なら、濡れねえだろ。とりあえず着替えようぜ」
そう言いながらファリスは着ていた衣服を脱ごうとし始めた。
「ちょっと、待てや!」
それにはバッツが慌てた。彼女はどうも自分の性別の意識が低いらしい。そしてバッツの性別への気遣いも低いらしい。
「着替えるなら俺が移動してからにしろよ!お前さあ、自覚が足んなすぎなんじゃねえのか」
慌て呆れながらバッツに言われた言葉が、ファリスにとっては非常に面白くない物だった。
「俺を女扱いすんなっつったろ!」
「いや、そう言う問題じゃねえから!!」
「そういう問題だろうが!!」
白熱し始めた彼と彼女を止めるのは、いつも通り妹姫の役目だった。
「…もう、二人とも落ち着いて」
「口出すなよ、レナ!」
ファリスが非難がましくそう言うのに、レナはニッコリと微笑んだ。
「姉さん」
微笑みを浮かべるレナはとても愛らしい。だがその瞳は笑っていない事を、ファリスはよく知っていた。
「落ち着いてくれるわよね?」
「……はい」
「そもそもね」
困ったような笑みを浮かべて、レナはため息をついた。
「姉さんの方が悪いわよ、今回は」
「今回はってなんだよ」
いっつもは俺が悪いみてえじゃねえか、というバッツの呟きをレナは無視した。付き合うだけ無駄だというのが、これまで一緒に過ごして来て学んだ事だった。
「じゃあ、俺あっちの方で着替えてくる」
そう言ってバッツは少し先の木の下に歩き出した。だが立ち止まって、何か言いたげにファリスの方を振り返る。
無言で見つめられてファリスはやはり面白く無かった。
言いたいことがあるならハッキリ言いやがれ、これは彼女のモットーである。
だがバッツは黙ったまま、何か迷ったように彼女の方に視線を向ける。
「……何だよ」
沈黙に耐えかねてファリスが振る。
「お前」
ファリスから視線を外してバッツは続けた。
「女だろーが」
ちっとは理解しろよと、顔を背けたまま吐き捨てるように言ってバッツはその場を離れた。
残されたファリスはその言葉に非常に腹を立てた。性別で括られるのは海賊時代にさんざんされて来た事で、彼女にとっては最も忌むべき行為だった。
「お前は女の子なんだから、無茶したら駄目だ」
幼い頃、育ての親である前海賊頭に何度諭されたか分からない。そうしてその度に「自分は男だ」と反論を重ねたのだった。
「女だから」そんな括りがなんと馬鹿らしいのだと思って過ごして来た。
だからバッツのその言葉はファリスを猛烈に苛立たせた。同時に酷く落胆していた。
日頃仲が良いとは言い難かったが、それでも良い仲間だと思っていたのだ。
抜けているが、バッツは頼りになる存在で、一目置いていたのも事実だ。そして自分を対等に見てくれる――限りなく本音の言葉で言うなら、友人だと思っていた。そして、彼女にとって友人とはとても希少な存在で、だからこそ彼の言葉が手痛く響いたのだ。
「……ふざけんな」
そう吐き捨てても、気持ちはおさまらなかった。
また別の日にはこういう事もあった。
その時ファリスは、すこぶる体調が悪かった。
動くのもだるくて、歩くのが億劫だった。それでも弱っている素振りを見せるのは絶対に嫌だった。
レナはそんな彼女の様子を察していたようで、横目で心配そうに窺っていた。そして、弱味を見せたくないというファリスの気性を誰よりも分かっていたのもレナだった。だからレナはファリスの身を案じていたが、その素振りを出せずにいた。そしてその時滞在していた街を出発するはずだった予定を曲げたのもレナだった。
「レナ、ごめんな」
宿の部屋でベッドに寝転がったまま、二人きりになった時にファリスはそう呟いた。
嬉しいか嬉しくないか二択で選んだ場合、答えは「嬉しくない」だろうとファリスは思う。
妹へ必要以上に気遣わせてしまった罪悪感と、申し訳なさにファリスは苛まれる。
「ありがとう」は、感謝の意味だ。こんな複雑な思いのまま、そんな言葉は言えなかった。そんなのはレナにもっと申し訳ないとファリスは思っていた。
「今日はみんな自由行動の日になったんだから、姉さんが謝るのはおかしいんじゃない?」
謝罪すら受け入れない妹は容赦無いなと思いながら、ファリスは苦笑した。
「…そうだな、俺は今日は寝て過ごす日にしたんだった」
レナは優しく笑うと部屋を出て行った。
「……かっこわりいな、俺」
そう呟いてファリスは目を閉じた。
少しだけの気がしていたのだが、目を開けると窓から差し込む陽が照りつけるような色になっていた。
目を閉じた時はまだ朝方だったのに、大分陽が高くなってしまったようだった。
僅かに開けられた窓から、風が入りこんでカーテンを揺らす。世界が危機に瀕しているなど嘘のように平和な光景だった。
陽差しが柔らかいのが嬉しいと思う自分に驚いていた。
今まで生きてきた世界は、もっと尖って鋭くなければならない筈だったのに。
―もっと孤独に、もっと余計な物を削ぎ落とせ。そんな事すら遠い昔の事のように思う自分に驚いていた。
そして零から這い上がっていく必要が無いと、思う自分に戸惑っていた。
こんな甘っちょろい俺でいいのか、とも思えない自分に戸惑っていた。
だが、レナの微笑みを思い出す。それが答えに繋がる気がして、それに満足する自分に驚いていた。
扉が開く気配がした。
レナだろうと思って顔を向けると、意外な事にバッツだった。
「…いきなり開けんなよ」
バッツが嫌そうな表情を浮かべた。
「『今から開けますよ』っつって開ける方が馬鹿みてえじゃねえか」
それもそうだと思いつつ、そんなバッツをファリスは想像した。やべえ、おかしすぎると思いながら、バレない様にこっそり笑う。
「ノックすりゃ済む話だろうが」
笑いをおさめてファリスはそう言った。
「…それもそうだな。悪い」
まさか謝罪されると思わず拍子抜けする。以前の彼ならそんなしおらしい事にはならない筈だったのに、と思って何か苛々した。
そんな彼女の様子に構う事無く彼は手に持っていた物を無言で差し出した。
何かと思って見つめたが、紙袋に入っているので中身は分からなかった。
バッツの行動がよく分からないまま、ファリスは差し出された袋を受け取った。
指が触れ合う。
触れ合ったと思ったらバッツは手を引っ込めた。そうしてそのまま彼は部屋を出て行った。
突然の彼の行動に最初は驚いていたが、他人行儀さが滲み出ている気がして、段々とファリスは腹が立っていた。
「訳わかんねえ、何だよアイツ」
腹を立てながら受け取った袋の中身を確認する。苛立ちを反映するように、紙袋を乱暴に破く。
予想以上にその中には色々な物が入っていて、原型を無くした紙袋から中身が零れ出した。
頭痛薬・腹痛薬・鎮痛剤など中に入っていたのは、多種の薬だった。
体調の事をバッツにも気付かれていた――その事にファリスは苦々しい思いで唇を噛み締めた。
その他にもバッツがおかしいと思うのは続いていた。
すっきりしない。
生きていくのにおいて、大概の事はイエスかノーかでいい筈だとファリスは思っている。だから彼女はすっきりしないのは嫌いだった。
考えまいとしているのに、結局思い返していたのはバッツの事だ。苛々した。
「今日こそハッキリさせてやる」
そう呟くと、彼女はバッツの方へ足を向けた。即決即断―彼女の長所であり、短所でもあった。
「バッツ」
水汲みをしている彼の近くまで行って呼び止めた。
何だよという表情を浮かべてバッツが動きを止めた。
「ちょっと来いよ」
果たし状でも突きつけられそうなその勢いにバッツは気圧された。そんなバッツを置いてファリスは歩き出した。その唯我独尊な様子にバッツは呆れたように彼女の後姿を見遣った。
「何なんだよ」
そしてため息を着きながらファリスの後を追った。
「…お前どこまで行くんだよ」
後ろから聞こえたバッツの言葉にファリスは我に返った。目的地など最初から無いのだ。
歩みを止めてファリスは後ろを振り返る。自分の失態に舌打ちしたくなる。それもこれもコイツのせいだ、と思いながらバッツを睨みつける。そしてその双眸の鋭さに思わずバッツは腰が引けた。
俺、何かしたかよ、と思いながら背中に冷や汗をかく。
腕組みをして、ファリスは彼を睨みつける。積み重なった疑念を爆発させなければ、と思いながら怒りを高める。
「俺に何か言いたい事があるんじゃねえのか」
燃える怒りのお陰で低い声が出る。
「…はあ?」
しかし相手から返って来たのは、ハテナマークまみれの声音だった。
「だから、何か言いたい事があるんじゃねえのかっつってんだよ」
「俺が?お前に?別に無えけど」
「んな訳ねえだろ!!何かあるんだろ?!」
「…だから、無えって」
「嘘つけ!!」
「嘘なんかついてねえっての!つーか、意味分かんねえし!」
「意味分からんのはこっちだ!」
普段が普段だけに、互いに火花が飛び散りそうな視線を交し合う。不幸なことにいつも止めてくれる存在がその時は不在だった。
何だよ。
何なんだよバッツ。
いつからお前とこんなに腹を割れない間柄になっちまったんだ。
俺はお前とまだ途中でも、いずれ親友って言える立場になれると思ってたんだ。
普段は喧嘩ばっかだけど、お前の事ホントに信頼出来るヤツだと思ってたんだ。
お前にとっては俺はそうじゃねえのかよ。
俺が勝手にそう思い込んでただけなのかよ。
なあ、バッツ。
勝手に思い込んで、そうじゃないから裏切られたような気になって、馬鹿じゃねえかよ俺。
お前は悪くないんだ。だけど、そう思いたかったんだ。
目の奥が熱くなる。
ああ、自分は泣きたいのだとどこか別の所で見つめながらファリスは思った。
そうして歯止めをかけられぬまま、ファリスの目から涙がボロリと零れ出した。
溢れ出すそれは、彼女を覆う最後の鎧だ。
けれど砕けかけたそれは、意味を失った鎧だ。
「ファ、ファリス、どうしたんだよ?!」
突然の事にバッツはうろたえた。
女の涙に男は弱いのだ。
「なんでもねえよ!」
鼻声になりながらファリスはそう言う。彼女から溢れるのは拒絶のみだった。
「…もう良い。悪かったな」
そうして鼻声のまま、彼女は後ろを向いた。
「良く無えだろ、どうしたんだよ」
「どうもしねえよ!!」
彼の気遣いが癪に障って仕方が無かった。
こんな醜態を見せてしまって、せめて何も無かったかのように終わらせたかった。
「良いからもう行けよ!」
「嫌だ」
自分で呼び出したくせに、バッツが煩わしかった。彼の隣に居る意味はもう無くなったのだ。そう思ったらまた泣けてきた。
これ以上見られたくないからどこかに行って欲しかったのに、彼はその場を去らなかった。
「…壁みたいの感じるんだよ、最近」
ファリスの言葉に主語はなかったが、誰の事を指すのかバッツは思い当たったようだった。
「…前はこんな事なかった」
そう言ってファリスは涙を手の平で拭った。こいつの事で泣くのはこれで最後だと決めた。
「しょうがねえだろ。気付いたの、最近なんだ」
バッツの返答は予想と違う物で、思わずファリスは動きを止めた。
「やっぱ言いたいことあんじゃねえか!」
そう叫んでファリスが振り返ったのと、彼がその後の言葉を続けたのは殆ど同時だった。
「―――だ」
暫く互いに止まっていた。
止まったまま無言だった。
「ごめん、俺の叫び声でお前が何言ってるのか聞こえなかった」
ひとしきり沈黙した後、ファリスはそう言った。
「悪いことしちゃったな」と表情に出ていたので、本当に聞こえなかったようだった。
あんまりすぎる、と思うバッツの脇を風が通り抜けた。
思わずとは言え、物凄い勇気を使ったのだ。半分以上は勢いだったけれども。
バッツの頬に熱が昇る。けれど物凄い鋭さでファリスを睨みつける。
仇でも睨むかのようなその視線に、ファリスは背筋が冷えた。
どうやら自分は相当な何かを聞き逃したらしいというのが分かった。
「もう隠さねえ」
そしてバッツは彼女へ向けて指をさした。…某逆●裁判のように。
「絶対お前に分からせてやる!!」
そう言い捨てて彼は彼女の前から走り去った。
ファリスは呆気にとられたまま身動きを忘れていた。
そうして彼がどんな方法に出たのかは、また別の話。
* * * * * * * * * *
タイトルからイヤンなのにしちゃったよ。
文章を書くのかなり久しぶりでした。何かバツファで色々妄想してたらバツファ神が降りて来て、めちゃんこバツファりたくなってこねくりまわしてたら長くなってしまっておどろキンコ。
コンセプトは「王道設定を詰め込んでやろう!んでラブラブ!」です。
結果いつも通りラブにはなりませんでした。
この話はまだ続きます。次の話で、これのバッツ視点で書きたいなあと。んでその更に次の話で、B氏がF氏にどんなモーションアタックしていくのか書いて行きたいなあと思ってます。この後も多分王道になる予想(笑)
(08.01.20)
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