刃についた液を布で乱雑に拭うと、彼女は乱暴にしかし正確にそれを柄に納めた。
カシャンという金属の軽い硬質な音がした。余り幅広ではない小回りの利く剣を彼女は好んだ。
彼女が感慨も無く横目を向けた方には、今しがた作り上げた動かぬ物体が二つ転がっている。
今いる場所がどこなのか分からない位めちゃくちゃに突き進んできた気がした。
戻らなければ、とは不思議に思わなかった。
口の端だけで薄く笑うと顔を上げる。
背後から声がしなければ、また歩き出すつもりだった。
遠くから、誰かが叫んでいた。彼女の名前を。
靴底が砂利を踏みしめる音が、夜の冷えた空気に存外に大きく響いていた。足音からして声主は走っているのだろうと思われた。
遠くから呼ぶ声が近くなった。彼女の名前を叫んでいる。
彼女は顔だけでそちらへ視線を向けた。
やっぱりな、と思った。
「――――!」
三度目に名前を呼ばれたのと、相手との距離が手を伸ばせば届く位に詰まっていたと認識したのは殆ど同時かもしれなかった。そして名前を呼ばれるなり胸倉をつかみ上げられた。
「お前」
容赦なく渾身の力でつかみ上げられて、彼が心底怒っているのだと分かった。
「お前、何考えてんだよ」
白い息。凍る色。
夜に紛れて全てが薄い。
彼が吐き出した息が溶けて消えた。
「…何でここに居ると分かった?」
彼女の、知りたい答えを無視したような態度に更に怒りが湧いた。
「んな事、聞いてねえ」
つかみ上げた襟元を握る拳に力が入った。頭が吹き飛ぶ位の怒りを込めて相手を睨んだ。
凍る色、感覚の無い指先。
「何も、」
彼女の声が少し震えた。ためらうように口を閉ざす。
「何も、考えていなかったかもしれない」
それを聞いて空いている方の手でも胸倉をつかみ上げそうになって、抑えるように彼はその拳を握る。
そんな事をしたいんじゃ無い。
ただ、心配だったんだ。それだけを分かって欲しかった。
だから、胸倉をつかんだ手を離した。それでも怒りが混じって突き放した。
それが急だったので、彼女は後方へ激しくよろめく。片足で踏ん張って何とか尻餅は避けられた。
「お前、あいつがどんだけ心配したか分かってんのか?」
彼女には、分かってるとは言えなかった。
彼らの神経をどれだけすり減らしてしまったのかというのは即座に予想できた。そうなのだ、なんて最初から知っていた。
それでも彼女は自分が「知っている」という資格が無い事を分かっていた。
自分の衝動でここまで来て、彼に名前を呼び止められなかったらきっと、またここから進んでいた。
今は悔いはないと思える気がした。
それでも自分が彼の立場だったら同じように怒ったろうと容易に予想がついた。
唐突に、自分が立っている場所が危うい気がして地面へへたり込んだ。
座ったまま顔を俯かせると、長い髪が彼女の肩を滑り落ちた。
俯いたまま、彼女は動かなかった。
彼が彼女の側へ寄ってしゃがみ込む。枯葉が潰れてクシャリと音を散らした。
「お前の気持ち、すんげえ分かるよ。俺だっておんなじだからさ。けど、それだけは駄目だ。」
そして彼は彼女の頭をそっと撫でた。彼女は肩を震わせて、自分の顔を右手で覆った。手の隙間から引きつったような息が漏れる。
「それだけは、どうしても駄目だ」
彼は片手だけで彼女の頭を引き寄せて、そのまま頭を撫でた。
彼女は動かないまま肩を震わせた。
「目、覚ましたよ」
弾かれたように彼女が顔をあげた。予想通り涙の跡があった。外聞も無くそれをさらす様子がどれ程彼女が切羽詰っていたかを示すような気がして、彼は自分も同じ位切羽詰っていたのだと分かった。
引き寄せた彼女の頭に彼は顔を乗せた。彼女の髪に熱い感覚が染みて、彼も泣いているのだと分かった。
「あいつにも、お前にも、何にも無くて」
良かった、と喉からしぼり出すような彼の声が、彼女に痛く響いた。
それでも、今はどんな感情よりも先に喜ぼうと思った。
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