声がこだまする。
 細く遠く、耳から離れないように。
 不思議な響きを持って、少年の周囲を取り囲むように。

 囚われてこだまする。
 知らない言葉。
 きっと、遠い日の事を綴っている。
 そんな気がする。

 温度のない水の波紋が、足元から揺れて少し波を作る。

―私の声が聞こえるの?
 こだましていた音が途切れると、同じ声色でか細く話しかけてくる声が聞こえた。
「君はだれ?」
―聞こえるの?

 分からないよ。
 君の聞きたいことが、僕には分からないよ。

 僕が聞きたいことが、君には分かるの?


―覚えてないの。分からないの。


―貴方の記憶を 少し 頂戴…


 いつだったろう。
 少し硬い毛質の髪が目の前で風に揺れていて、それを僕が掴んだら痛がっていた。
 僕はその人に、肩車をしてもらっていて。

 揺れる朝焼けと、鳥が羽ばたきだす遠い空
 昔の、朝。

 その隣で揺れる髪。
 手を伸ばして届かなくて、替わりに僕の手を握り締めてくれた人。
 僕がその人を呼ぶと、その人は零れるように笑って僕を呼び返した。

 切れ間から照らすのは その日初めての空
 一番最初に覚えている 一番最初の 朝
 昔の、朝。

 ふたりと、もうひとり。



―貴方の 大切な人なのね
 か細い声。今度は言葉が分かった。
―私にも、大切な人が居たの。とても昔に。
 うつろにしか覚えていないと。
 とても近いのに とても遠くなってしまったと。
 繋いでいたものを失って 隔てられてしまったのだと。

 長い霧の底で
 波紋が散る。 

「ここは、どこなんだろう」
 だってここには、僕ひとり。

−稀に迷いこむ人がいるの。
「君は、ずっとここに?」
 少しだけ沈黙があった後、空気が悲しげに揺れた。
 何も返事がなかったけれど、そんな風に揺れた。
−・・・聞こえるわ
 どこからか別の声が聞こえる。
 誰かを呼んでいる。
 どうしようもなく、胸が熱くなる。
「帰らなくちゃ」
 きっと、待ってるから。
 理由なんかなく、でもただ一つだけ確信を持って
−思い出せるの?
 さっき少し記憶をもらったから、それを取り戻さないといけないんだと声は告げた。
 取り戻すのに自分は手助けする事が出来ないのだと、告げた。

 誰かを呼んでいる。
 約束のように 呼ぶ。

「父さん?」
 答えを見つけた。
 約束のように 呼ぶ。

−さようなら。

「きみは、」
−私は もうすこし待ってるわ。

  あなた達とは 時間の流れが違うから


 遠い水の底で
 かわした 手のひら。



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